United Nations Forum for the Transition

SI  VIS  PACEM  PARA  PACEM!   If you want peace, prepare for peace! 平和を望むなら平和に備えよ

CONSENSUS MODEL

CORRESPONDENCE

MY PUBLICATIONS

ECOLOGY

SAYINGS

GOOD:

     http://www.democracynow.org

MY BLOGSITE



Under Construction:

Friedens-Institut

GoogleSearch WWWSearch this site

                               

Biography of Shidehara Kijuro

 

(Click here for a summary of the author's dissertation in English)

 

幣原喜重郎 (1872-1951)

                                                             ENGLISH                                     外交官幣原の伝記(目次)

日本の・幣原喜重郎(1872-1951)は、国際主義者であり平和主義者(組織的あるいは科学的平和主義に属する)であった。彼は、東京帝国大学で穂積陳重教授(1855-1926)の下で法学を学んだのち、1899年にロンドンにいた。それは「第一回ハーグ平和会議」のすぐ後のことであった。そして第二回平和会議とそれに至るまでの諸行事の成り行きを東京にいて見守り現地代表と連絡を取り指示を与えた。彼は外務次官になる前、即ち1914年6月から1915年9月までオランダととデンマークの公使としてハーグにいた。そして1918年から1924年まで「常設仲裁裁判所」の裁判官の一員であった。そして1919年から1922年までアメリカ大使を務めながら、「ワシントン海軍軍縮会議」で全権の任にあたり、ワシントン体制の創始者の一人でもあった。山東(Shantung)を中国に返還することにも関わった。彼は戦争を非合法にしようとするアメリカ人の運動とも関わり、その中に友人を持っていた。

彼の信条の一つは次のようなものであったー「仏教が教えるもの即ち行動に応じて報いを得ると言う法則(因果応報)は、国際関係にも当てはまる」

 幣原はオランダの外務大臣のジョン・ルードンと友人だったようだ。そしてC・ヴァン・ヴォレンホーヴェンとも会い、彼の考えを支持した。(その考えは国際警察の創設を求める

ヴォレンホーヴェンの提案に見られる。この提案はハーグで開かれた913年の第19回国際平和会議で提出されたものであった。その考えは次の三冊の著書の中に示されている。第1に「国際法の3段階」(1919年・Martinus Nijhoff 社刊・1919年)、第2に「グローシャスとジュネーブ」(Bibliotheca Visseriana 社刊・1926年),第3に「平和の法則」(Macmillan 社刊・1936年)である。

ヴォレンホーヴェンは「平和の法則」の257ページで「1925年において日本は、オランダ、フランダースとアメリカ合衆国と並んで上記の『グローシャスとジュネーブ』に敬意を表した国であった。」と述べている。そして1931に至るまでグローシャスの研究は日本で人気が高まりつつあった。この時期は幣原が外務大臣の時代で、幣原は「平和主義的な」融和的・国際主義的な政策を追求していた。そしてもちろんのことだが、第一次世界大戦後においてグローシャスの労作の唱道者の中心はヴォレンホーヴェンであった。幣原は,外務大臣(1924年から1927年までと1929年から1931年までの二期)として、ボクサー損害賠償基金を文化の分野で使えるように中国に返還した。

 彼は軍を抑制しようとする人々の陣営に影響力を行使し続けたが、満州事変後には体制内に留まって戦争を止めさせる姿勢(inner emigration)を取り始めた。

 1941年後は、「平和の触手」を広げ、伸ばして早い時期に戦争を終らせようとする日本人の中で最も著名な人物であった。敗戦後は、総理大臣として(1945年10月から19465月まで)、占領軍の指揮のもとで多くの変革をもたらした。そして、1946年1月24日に日本国憲法の有名な第9条をダグラス・マッカーサーに提案したとして多くの人々から今まで評価されている。幣原はしばしば次のように訴えていた―「世界人類とともに戦争なき世界の創造 」と。